Archive for 3月, 2009
火星 紳士でございます。
夏目漱石「我輩は猫である」のつづきです。
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他の、猫達も人間に怒っています。
生まれて三日目の子猫を、四匹とも捨てられてしまった筋向こうの白君は、人間を滅ぼさねば、猫の幸せはないといい。隣の三毛君は、人間は「所有権」を解ってない! せっかく見つけた魚を、人間は必ず略奪する。と憤慨しています。
この時、”メザシの頭”や””ボラ(魚)のヘソ”を三毛君は取るというのですが、ボラのヘソって何でしょう? ヘソあるんですかボラ? なぞです。
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つづく。
(途中からで解らない方は、最初から、点線の内側だけ辿って読んでくだされば、多少飲み込めるかもです)
【解説】
時々、意味もなく駄洒落を言う人がいる。相手とのコミュニケーションを取るでなく、ただ言えば良いとばかりに、前後のつながりも状況も考えずに 駄洒落を語る人がいる。そういう人を見ると私は本当に悲しい。唾棄したくなる。
そして、この「仏像をぶつぞう」と言う駄洒落は まさにそう言った駄洒落である。思想のかけらもない。思慮というものを感じさせない駄洒落の典型である。
仏像をぶつぞうに何の意味があるのだろうか。ぶったら痛いじゃないか。手を怪我するかもしれない。仏像が壊れたら文化財破壊になってしまうじゃないか。全く意味のない駄洒落だというのに、奈良・京都に修学旅行に行った学生の引率の先生の8割 生徒の3割は 仏像を前にしてこの駄洒落を想うと言う。どうなっているんだ日本の感性 そして教育!
仏壇変りはありません(=別段変わりはありません)という駄洒落は、仏壇に変わりがないのは良いことだし、日々の生活に代わりのないことも良いことだと言う意味で、日々の小さな幸せを伝えるほのぼのした駄洒落であり、仏像をぶつぞうとは似て非なる佳作の一つだと思うのである。
同じ仏教をテーマにしたのにこんなに差があるなんて本当に打駄洒落の道は奥深いものがあるとまたまた感じ入ってしまうのであった。
火星です。
夏目漱石「我輩は猫である」のつづきです。
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それでですね。猫はボヤキます。人間はわがままで、勝手で、ヒドイと。人間の子供は袋を被せたり、逆さまにしたり、へっついのなかに押し込んだりする。そんでもって、ちょっと手出しをすると、一家総出で追い回す。んー、まあそうですね。普通そうします。
「へっつい」というのは、昔のカマドのような、なんか、そんなものらしいです。
猫を袋に入れる遊びは、話には聞きますが実際やったらどうなるんでしょう。モコモコ動くのが良いのでしょうか。んー、どうでしょ。
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つづく。
(途中からで解らない方は、最初から、点線の内側だけ辿って読んでくだされば、多少飲み込めるかもです)
せんどぅ まんどぅ ちゃんどぅ ぽんどぅ ぴんどぅ
【解説】
船頭という言葉は死語に近くなっています。なのにこのおかしみは何でしょうか。それは、ひとつは、言葉のリズムというものです。 どぅ という部分がつい腰をフリフリしたくなるおかしみをあたえていますね。もうひとつは せんどぅ と まんどぅ の響きが近いので なんとなくお饅頭を連想してしまって つばが口の中にわくような 空腹感を感じて島します。
お腹のすく駄洒落と言ってもよいでしょう。


